猫への喪‐大島弓子‐ |
猫への喪‐大島弓子‐
大島弓子の猫への弔いの作法はめざましい。
「チビラテが逝ってしまった」。
大島弓子『キャットニップ』(第52回‐「きらら」'16.4月号・小学館)。
この連載を読むひとたちにはお馴染み、野良のハナちゃんの子・チビラテ(8歳)の死。
大島さんが書くように猫は突然、死ぬ。激痩せの兆候、嘔吐の兆候が顕著であろうと(多くの場合、前者は腎臓の、後者は心臓の疾患に由来する)、彼らはふだん、人間の気遣いにはまったく我関せずのごとく極めて恬淡と生活している。しかしながらやはり、「これはもうアウトか!」という状態の“気付き”に観察者が機敏であるかの如何で、猫との精神的紐帯の切実さが測れようというもの。ただ、相手は外にいる野良であり、獣医に診せるために飼い猫をヒョイとキャリーバックに押し込めるようにカジュアルにはゆかない。容易に手を出せないのだ。
しかし、この両者の距離ゆえにいっぽうの死を看取るいっぽうの側の喪の作業が際立って秀逸に感じる瞬間を今回も私は、垣間見ることができたのだった。
チビラテが最後に横たわった場所が、大島さんが外猫用に庭に具えた発砲スティロール容器を改造したシェルター内であったという奇貨も読者の感情を慰撫して止まないが、それに増して私を打つのは、彼女のチビラテに向けた「喪の作法(way of Mourning)」、その顕現であったからだ。
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体も固くなりはじめていたが ながいこと 手をあてていると 中のほうがあたたかい
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手が感じ取るであろう死後硬直の非日常的な感触をも厭わない彼女の積極的な最後の看取り。そうすることで死の背後の不可視の時間が大島さんの内部でゆっくりと流れていったであろうことが、私にははっきりとわかる。なぜならば、五年前の「3・11」の一か月後に死んだ家猫のノノコの遺骸を湯灌する過程で、私も同様の経験をしていたからであった。
やがてこの微かなぬくもりさえも消失するとき、真に不可逆的なものとの邂逅の儀式、別れの時間が訪れたことを明確に認識するのだった。
最後に好きな句を。
逝く猫に小さきハンカチ持たせやる
大木あまり
『星涼』(2010)
* 写真(上)はサバのこどもの“臆病ちゃん”。ガラス戸越しならまったく平気みたい。こちらが語りかけることをじっと聞いている。
下は生前のノノコ。2011「3・11」の直後の写真。向かい屋根の上で。東京でも揺れが激しかったことがわかる。このあと一か月足らずで逝った