近衛秀麿 |
本日(8日-土-)午後8:00~9:50、TV放送あり。「戦火のマエストロ近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家」
指揮者の近衛秀麿(1898・11月18日~1973・6月2日)の晩年、それも死去間際の氏と学生オーケストラとの練習風景を、私は観ていたのだった。
この「Wikipedia」(https://ja.wikipedia.org/wiki/... )に記された近衛さんの生涯はめっぽう面白い。とくに後半の“愛人”関係の記述には、思わずのけぞった(笑)。
1973年の春先4月より早稲田大学交響楽団は、その年の夏の千葉・木更津への演奏旅行に向けて練習に余念がなかった。大学入学と同時に、このオケにヴィオラで「入団」したばかりの私は、演奏旅行とその後、秋の定期公演の2回分の公演の客演指揮者として“ワセオケ”に迎えた近衛秀麿さん指揮での練習を何度か、観ていたのだった(入学したばかりの1年生でヴィオラを学習し始めた学生はもちろん、まだ“本番に乗る”ことは許されず、練習を見学するのみ。因みに当時の常任指揮者はオケOBで、「理工学部電気工学科」卒のプロ指揮者、山岡重信さん-https://ja.wikipedia.org/wiki/...-であった)。
曲目は「ニュールンベルグのマイスタージンガー」前奏曲(ワーグナー)、モーツァルト「交響曲第40番」(ト短調k.550)、メインがシベリウス「交響曲第2番二長調」。
戦前、応召前まで神戸で音楽活動していた亡父は息子に、「指揮は誰やねん? 近衛秀麿? 近衛はんはなあ、日本の“フルとメンくらう”(もちろん、フルトヴェングラーのもじり)言うてな、そら分かりにくい指揮で有名やったんやでェ」と言った。
身体の真ん前、ほとんど“眼より下”でコチョコチョと小刻みに動かす近衛さんの棒はたしかに、拍のアタマがわかり難くかった。
おまけに語尾を「まし」(?)という独特の節回しで閉じる氏の話し方は珍しかった。
「弦、そこのボーイングは“アップ(上げ弓)”からはじめてくださいまし」(…)
という具合で、学生たちは、「やっぱ“お公家さん”は違うなあ!」とばかりに近衛さんの“物マネ”に興ずるのだった。
学生オケと近衛さんとのコラボはしかし、氏の急逝で幕を下ろした。急きょ、客演指揮は渡邉暁雄さん(1919-1990)にバトンタッチされ、当の1973年秋の“ワセオケ”定演のレコードはいまも手元にある。母上がフィンランド人であり終生、シベリウスのスペシャリストであった渡辺さんの指揮で学生オケがシベリウスの録音を残せたというのも、近衛秀麿-渡邉暁雄の豪華リレーという豪華なる奇貨、と言えた。
近衛さんの評伝『近衛秀麿-日本のオーケストラをつくった男』(大野芳・著)にはしかし、氏が最後に振っていたオケが“ワセオケ”であったという事実は記されていない。